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(続)仙台より

ほぼ2週間ぶりに、仙台の様子を伝えるメールが届いたので、やはりこれも情報共有と記録のために抜粋して転載しておこうと思う。
(なお、ケータイのメールはほぼ問題なく通じるようになっているので、今回は転載許可ももらっていますが、太字、下線などの装飾は私の独断で行っています)

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(1) 悲報

我が国にとって史上最大・M9.0の地震と、それに起因する大津波が多くの尊い生命を奪い去りました。死者と行方不明者の合計は2万7千名と発表されていますが、この震災の犠牲者の多くが津波によるものであり、家族全員が犠牲になったために行方不明の届け出がなされていないケースが多いことが懸念されています。最終的に、犠牲者の数はこの数倍になるだろうと予測する専門家もいます。
この他に、避難所に逃れている避難民が24万名余りと報じられています。240名ではなく、24万名です。
そして、避難所ではなく自宅で、ライフラインが寸断された環境で不自由な生活を強いられている「自宅難民」が、この数倍とも。
また、仙台高専の学生の中には、自宅が津波で流された、地震で倒壊した、という学生が何人もいます。

(2) 校舎の現状

校舎の電気が部分的に復旧したのは、震災から5日後の16日夜でした。1978年の宮城県沖地震(M7.4)でさえも翌日に電気が復旧したことと比べると、今回の震災の大きさがよくわかります。校舎全体に通電したのはさらに8日後の24日でした。
通電はしたものの、建物の損傷が激しく、内部断線が懸念されるため、少しずつ確認しながら作業を進めているところです。高学年棟や専攻科棟などは立ち入り禁止の状態が続いており、また、グラウンドや駐車場の地面には大きな亀裂がいくつか見つかっています。水道とガスは、未だ復旧の見込みが立っていません
それほど大きく、強い地震でした。本震では震度4.0以上の揺れが170秒続き、最大震度は7.0を記録しました。余震が多いことも今回の地震の特徴で、11日から14日までの3日間に震度4.0以上の余震は250余回ありました。今も、震度4~5程度の余震が日に何度か感じられます。この余震は1年以上続くそうです。

(3) 学校行事

このような状況をふまえ、先週予定されていた終業式や卒業式、修了式や離任式をはじめ、4月の入学式や始業式に至るまで、4月下旬までの学校行事はすべて中止になりました。
教職に就いて約30年間、春には卒業式の別れが、そのすぐ後には入学式の新たな出会いがあることを、至極当然、当たり前のことと感じてきました。そうした日常が、実は極めて脆く危うい偶然の連続であることを、今年、思い知らされました。

(4) 地域の復旧

2週間経つというのに、被災地の復旧は驚くほど遅れています。仙台市は人口104万人、東北最大の都市ですが、あろうことか、その市内の避難所の数カ所で食料が25日には底をつきそうだ、との報道がありました。これは決して誇張ではなかったらしく、懸命の手配で25日はかろうじて持ちこたえたものの、同様の心配が続いています
不幸なことに、今年の3月は異常に寒い。地震直後に雪が降ったことに始まり、一日の最低気温は零下が続き、昨日26日などは大雪警報が出されたほどです。この連続する寒さが、ボディ・ブローのように我々を襲います。寮の食堂の床に体育館から運び込んだマットを敷き、その上に布団を敷いたのですが、生まれて初めて「寒さで眠れない」夜を経験しました。
さほど広くはない寮の食堂でこの有様ですから、小中学校の体育館のような環境ではどれほど辛いことでしょう寒さ等による衰弱で亡くなったお年寄りは52名と報じられています。
そして何より、こちらの被災地に不足しているのは、ガソリンです。給水車まで水を取りに行くにも、数少ない食料販売店に行くにも、コインランドリーを使うためにも、そもそも通勤するために、車は不可欠ですそのためのガソリンがありません
大手製油会社が輸送経路を確保し、多数のタンクローリーを準備、22日の連休明けにはガソリン不足は解消する、というニュースがありましたが、状況に何の変化もありません
スタンドの前には2キロの車列が連なり、しかも、列に並んだからといってガソリンが手に入るとは限りません。私は一昨日も、午前4時から6時まで並んでみましたが、結局、購入することはできませんでした。このような状況が、もう2週間も続いています。
断水しているので、銭湯を使うしかありません。一日1,800人限定の銭湯に入るためには、午前8時から配布される整理券を入手しなければなりませんが、そのためには遅くとも6時には列に加わる必要があります。家族4人で並んでみましたが、かろうじて1,600番台後半をゲット、入浴できたのは午後5時半からの30分間でした。
これが、現代の、日本の、話です。

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唯一の救いは、学生です。

仙台高専は地域の避難所として一般市民を受け入れましたが、何と驚くべきことに、その避難所の運営は市や町からスタッフが派遣されるわけではなく、それぞれの避難所に、つまり仙台高専に、委ねられたのでした。
避難所の管理運営については、仙台高専にきわめて有能な事務官(女性です)がいてくださったおかげで、万事が実に円滑に進みました。これを支えてくれたのが、5年生と専攻科生・計10名のボランティアです。
彼らは特定のボランティア団体などではなく、地震直後に避難してきた市民の世話をするうちにそのまま避難所で共に寝泊まりすることになり、結局1週間ずっと留まって活躍してくれたのでした。避難所撤収の際に、彼らとの別れを惜しむ市民がいつまでも立ち去り難い様子で話し続けていた姿は印象的でした。
他にも、やはり地震直後に仙台高専に隣接する県がんセンターに直行し機材が散乱する現場の片付けにあたった学生が10名ほどおり、センターから感謝の言葉がありました。

最後になりましたが、これまで御支援いただいた各校に、心から感謝申し上げます。

私は学校を代表して御礼を申し上げる立場にはありませんが、仙台高専の一教員として、あらためて御礼を申し上げるものです。
地震直後に、長岡技術科学大学から膨大な量の支援物資をお届けいただきました。2004年の中越地震以来、地震に対するノウハウを蓄積してこられたとのことで、まさに私たちが必要としていた物資をお届けいただきました。

宿直明けの18日朝6時半、避難所の入り口前に足立ナンバーの大型観光バスが到着し、私たちを驚かせました。バスには、高専機構本部と東京高専、沼津高専からの物資が文字通り満載されており、いったい何トンあったのでしょうか、学生、スタッフ総出でバケツ・リレーで搬入してもたっぷり30分かかるほどの量でした。

その段ボール箱の全てに「元気だせよ!」「頑張るべ!」等のメッセージが記されており、学生たちはそれを1個ずつ声に出して読んでいました。

聞けば、バスは前夜8時半に東京を出発、こちらには予定よりだいぶ早く着いてしまったため、学校近くの路上で何時間か待機しておられたとのことでした。

そのバスと入れ違いに、こんどは福井高専からトラックが到着。何十箱ものリンゴの支援に、学生たちから歓声があがりました。

その後も、鶴岡、長野、豊田、長岡、石川の各高専から続々と支援物資が届けられました。また、この他にも多数、善意の御支援をいただいているようです。

本当に、ありがとうございました。感謝の言葉がみつかりません。忘れません。

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以上、

念のため補足しておくと、豊田高専からのトラックには、東海地区5高専から集められた支援物資が載っています。おそらく他の地区でも同様だと思います。

コメント先: "(続)仙台より" (1)

  1. 比留間 崇之 の発言:

    最近マスコミの報道は原発と計画停電の話題がほとんどで、被災者の現状についてはあまり報じられなくなってきました。食料やガソリンの不足についても解消されつつあると聞いていたので、驚きです。自分も含めて世間は自らの生活に影響があることのほうが関心が高いのですね。そのことに気付かされた記事でした。

    また、自分も被災しながらもいち早くボランティア活動を行った仙台高専の学生や、全国の高専生の結束力、嬉しく思います。

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